SSブログ
石堂淑朗 ブログトップ

ワープロ 石堂淑朗 [石堂淑朗]

 今ではワープロというとワードなどのアプリのこと、と思われるかもしれないが、ワードプロセッサーの意味で使わせてもらう。ウイキペディアでもワードプロセッサーのことをワープロと表現していたため安堵している。

 ワープロが世に出て、庶民には手が届かなかった1970年代から、1980年代になると各社がコストダウンを図り5-6万円程度の機種も出だした。私も1986年にリコーの液晶で2行表示できるものを買ったのだが機種までは覚えていない。ただ、当時右手をケガしたため報告書を記載するために購入したのだが、左手の指で打って報告書ができるため、感激したのを覚えている。

 文筆業の人にとっては、文字は万年筆や鉛筆などで原稿用紙を前にして小説内容などを思い浮かべながら記載していくもので、文字を打つとはとんでもないと考えていたのではなかろうか。当時、父親も雑誌に随筆を記載していたが、文字は手書きでないと文章が浮かんでこない、と言っていた。字が汚くて編集者を困らせていたようだが。ワープロの結果を見せると便利だね、との回答だけだった記憶がある。英語はタイプが当たり前ではと言っても日本語はやはり手で書く習慣が身について変わらないようだった。

 1980年代にはいろんな小説家先生等が、ワープロに対する記載をしているが、最近、大島渚と「日本の夜と霧」や今村昌平と「黒い雨」の脚本などを一緒した、石堂淑朗さんのコラムを読んだ。中央公論、平成2年(1990年)8月号に記載の「ワープロ事始め」だ。字の汚さからワープロで清書する手法をとるとのこと。文字は変換してくれるが、手書きのようにこの単語は漢字でどう書くのか辞典で調べ、意味を確認したり周辺の単語を眺めるなどの事ができない。今は単語の意味も教えてくれるのだが。例えば「憂鬱」は変換すると出てくるが実際に書けるのか、確かに私も書けない。昔の人は、肉筆を書写することによって文章の裏側にあるものまで読み取ったのではあるまいか、との記述に対しては、もっともだと納得してしまう。

 ワープロ黎明期に使用を開始した脚本家など文書を創造する人たちにとっては抵抗がありながらも使用していったのだろう。「ワープロでは指を使っているとは言えない。ただ、キーにさわっているだけである。ワープロはわれわれの内なる生命力を弱めるのではないか。」と記載されている。何度でも書き直しができる便利な道具だが、私も、今でも作業のための手段の域を超えていないように思っている。この漢字はどう書くのか調べてから手で文字を記載する手間を省いて、創造性の世界に集中せよ、との事かもしれないが。この漢字や表現はどんな時に使用するのか、そんなのは基礎知識としてちゃんと勉強しておけ、それをわかったうえでワープロを使って小説を創造しろ、とでもいっているのではなかろうか。その点では、石堂淑朗さんの時代から変わっていないのではないか、と思うのだが。

タグ:石堂淑朗
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:
石堂淑朗 ブログトップ