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ドライブクラブ  鮎川哲也5 [鮎川哲也]

 今は若者の自動車離れが進み、販売が減少しているため業界を挙げて躍起になっている。また、都市部では駐車料金が高く、必要な時にだけ融通しあうカーシェアなる方法も行われている。自家用車以外の楽しみが多い現代では、昔は欲しくても高くて車など買えなかった、とぼやくのは老体になったと考えるべきなのだろうか。今と違って自動車が庶民にとって高値の花であった時代にはドライブクラブなる組織があった。

鮎川作品で1958年に宝石に掲載された「二ノ宮心中」(その後「見えない機関車」に改題)には、「・・槇もすばやくライトを消して車をでた。ドライブクラブから賃借したオースチンだ。・・」との記載がある。

1957年10月に朝日新聞社から発行された「ドライブ時代」には日本のドライブクラブについて詳しく記載されている。アメリカにはレンタカーの先駆けとなった「ハーツ・システム」というドライブ・クラブがあり、10万台を600か所で提供していると紹介している。日本を見ると東京ではドライブ・クラブが113軒、571台(陸運局調べ)とのこと。



払ったお金の元を取ろうと無謀な運転をするため事故が多く、調べると無免許23%、速度違反15%とかなり問題になっている。そのため、陸運局の許可制にするとのことで1957年11月から逐次実施された。この辺の事情は1957年12月発刊の「時の法令」に「許可制となったドライブ・クラブ」との表題で説明されている。ドライブ・クラブの車も自家用車のナンバープレート(白地に緑)だったものが、黒字に白、に切り替えたられたことにより、自家用車を持った気分で運転出来たものが、ドライブ・クラブで借りましたがはっきり分かるため敬遠されるようになるとのこと。さらにドライブ・クラブを独立した事業として把握する法体系の整備も必要としている。レンタカーの先駆けとなったドライブクラブも法律や業界団体の整備によりだんだん現在の形に変化していった。鮎川氏が小説を発表し始めた昭和20年代から30年代の間は、時代が変化していく時であった。


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